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2011年12月29日 下野新聞が紙齢45000号下野新聞は12月29日、紙齢4万5千号を迎えました。 1878(明治11)年、前身の「杤木新聞」創刊以来、2度にわたる世界大戦を経験し、1945(昭和20)年の宇都宮空襲では本社も被災しました。経済の急激な発展と危機、そして未曾有の東日本大震災と、社会情勢の激しい変化の中で日々、号数を重ねることができたのは、地域の読者の皆さまの温かいご支援があったからこそと、感謝しております。 「明日へつながる 絆をつなぐ」。4万5千号を記念したこのキャッチフレーズの下、今後も県民に愛される郷土紙を目指していきます。 紙齢4万5000号に寄せて下野新聞社社長 観堂義憲
「福島原発近くの国道沿いに植えられたヒマワリ。復興のシンボルにしようと願う心にとても感動した」。下野新聞社の「新聞を読んで」感想文コンクールで最優秀賞に輝いた日光市の中3女子の感想文にそう書かれていました。 原発に近い福島県南相馬市の原町区。国道6号は冷たいみぞれに打たれ、ヒマワリはありませんでしたが、「ボランティアの方々が植えたヒマワリに、日本中から励まされている気がして本当に元気づけられました」と新聞販売店主(50)。来年も楽しみにしているという。 原町一帯は今も、あちこちにひっくり返った車や舟の残骸が残り、やりきれない光景が広がっています。この店主は震災直後、5万の住民が2千に減った時も新聞を配達し続け「読者が1人でもいる限り配達する」と自分に誓いました。 新聞が読者の手元に届くまで、多くの人々が携わります。記者が取材して執筆し、その記事を集めて紙面に組み上げ、何十ページもの紙面を工場で印刷。出来上がった新聞を販売店に運び、店主と従業員が家庭に配ります。 雨や風、災害に関係なく、こうした営みを日々繰り返し、今日で4万5千回(前身の杤木新聞を含む)になりました。明治11年の創刊から133年と半年がたっています。新聞に携わる数多くの献身的な人々と、新聞記事に感動していただける多くの読者に支えられて、ここまでやってきました。 紙齢1万号は第一次世界大戦中の大正5(1916)年。2万号は第二次大戦中の昭和19(1944)年で、用紙不足で4ページの新聞でした。この戦争では空襲で本社社屋も被害を受けました。 3万号が東北自動車道の岩槻・宇都宮間が完成した昭和47(1972)年。そして4万号が平成12(2000)年で、部数30万部超の堂々たる県紙に成長しました。 県民読者とともに生きてきた下野新聞は「郷土とともに明日をひらく」という言葉をスローガンにしてきました。県民に必要な情報、生活やビジネスに役立つ情報を発信し続け、豊かな郷土の育成に少しでも貢献したいとの思いからです。 今栃木県が直面している一番の問題は、震災被害からの完全な復興、原発事故の風評被害の払拭でしょう。読者から寄せられた10億5千万円を超す義援金は、栃木県や東北の被災者に届けられています。 農畜産業や観光、サービス業をはじめ、今も原発事故の打撃から立ち直れていない人々が数多くいます。そうした方々に役立つ情報を発信するとともに、県や県民が元気になるプロジェクトを手掛けていくつもりです。
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